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メアリーズビル()は、アメリカ合衆国カリフォルニア州の北部ユバ郡の都市であり同郡の郡庁所在地である。2000年国勢調査での人口は12,268 人だったが、2010年では12,072人と僅かに減った。ユバシティ大都市統計地域に属し、またユバ郡とサッター郡の2郡に因んでユバ・サッター地域と呼ばれることも多い。統計上の都市圏としてはサクラメント大都市圏の一部でもある。 == 歴史 == 1842年、ジョン・サッターがドイツのメクレンブルク出身のセオドア・コルドゥアにランチョ・ニューヘルベティアの土地の一部を賃貸しした。コルドゥアは家畜を育て、1843年には「ニューメクレンバーグ」と呼ぶ家屋と交易拠点を建設した。この交易拠点と家があった場所は後にメアリーズビルのメインストリートである'D'通りの南端となった場所だった。1844年、メキシコ政府がコルドゥアに彼自身の特許土地であるランチョ・ホンカットを認めた。 1848年、コルドゥアの元従業員だったチャールズ・コビロードが金鉱原で富を掴み、コルドゥアの牧場の半分を購入した。その後の1849年1月、コビロードの妻メアリー・マーフィーの義兄弟、マイケル・C・ナイとウィリアム・フォスター・ナイがコルドゥア牧場の残り半分を購入した。同年10月、コビロードはその牧場の大半をホセ・ラミレス、ジョン・サンプソンおよびセオドア・シカードに売却した。カリフォルニア・ゴールドラッシュ時代、この牧場は採鉱現場に向かう途中の鉱山師を運ぶサクラメントからサンフランシスコへの川舟が立ち寄る場所になった。メアリーズビル市に入る地点の路側にある看板は現在でも「金鉱原への入口」とされている。 1850年、コビロード、ラミレス、サンプソンおよびシカードはフラン人測量士オーガスタス・ル・プロンジョンを雇用し、まず「ジュバビル」、後に「ユバビル」と呼ぶ町の計画を作らせた〔Gold Rush, Section 9 by the California State Library〕。新しく転居してきた弁護士スティーブン・J・フィールドがその65区画を購入し、それらを販売するために土地譲渡証書を書き上げた。その後、フィールドは鉱山キャンプで3日間を過ごした後に、メキシコの役職であるアルカルデの候補指名を受けた。アルカルデとは形成されることになる新しい政府で市長と治安判事の任務を合わせたものだった。1850年1月18日、フィールドは、まだ町での滞在期間が6日間でしかなかったその対立候補を破った。また1人の市政委員も選ばれた。その夜、町の住人はチャールズ・コビロードの妻メアリー・マーフィー・コビロードに因んで町の名を「メアリーズビル」とすることに決めた。メアリーはドナー隊の生き残りの一人だった。メアリーズビルがカリフォルニア州議会で法人化された後、初代市長が1851年に選出された。フィールドはその後、アメリカ合衆国最高裁判所で最長期間を務めた者になった〔。 1851年には郵便局が開局した。1853年までに、それまでのテントの町が煉瓦造りの建物に置き換えられた。煉瓦造り商業ビルに加えて、製粉所、鉄工所、工場、機械工場、学校、教会が建てられ、日刊紙は2紙発行された。人口はほぼ1万人になった。1857年までメアリーズビル市は繁栄する都市だった。ゴールドラッシュ時代の戦略的な場所にあったので、カリフォルニア州でも最大級の都市だった。1,000万ドル以上の金がメアリーズビルの川岸からサンフランシスコの造幣局に運ばれた。市の創設者達はメアリーズビル市が「太平洋のニューヨーク」になることを想像した。 しかし、メアリーズビル市より上流のユバ川で水力採鉱が行われたので、堆積物がフェザー川とユバ川の河床に積み上がり、冬の嵐や春の雪解け時にメアリーズビルは洪水の危険性に曝されるようになった。市は堤防を造り、それが現在でも維持されている。この堤防が市の大きさを規定し、市のそれ以上の成長が事実上不可能になった。堤防が造られてからは人口が伸びなかった。1875年以降メアリーズビル市で洪水を経験したのは3度だけだが、この町は「カリフォルニア最古の小都市」と呼ばれている。またフェザー川の河床がさらに高くなったために、次第に航行が難しくなり、メアリーズビルまで川舟が上がって来なくなった。 メアリーズビルには1860年代にかなりの中国系アメリカ人社会が存在したが、1866年2月にすべての中国系アメリカ人は暴力的に町から排除された〔Showing Marysville in CA 〕。そのときから中国系アメリカ人の人口は回復していない。 ゴールドラッシュ時代から20世紀初期に掛けて、メアリーズビルには活動的なユダヤ商人の社会もあった。1862年にネイサン・シュナイダーがシュナイダー衣料を設立し、「価値の家」として広告され、1980年代後半まで存在した。アイザック・グレージャーとサイモン・グレージャーは1851年から1862年までオールドコーナー・タバコ店を経営し、その後サンフランシスコに移転した。J・H・マーキューズはウェスタン・アンド・パレス・タバコ店を始めた。フィリップ・ブラウンは自身を「メアリーズビルをリードする仕立屋、ズボンは4ドルから注文仕立て、P・ブラウンの特製品、白の労働着オーバーオール」というふうに広告した。1852年にW・K・ハドソンとサミュエル・ハリーマンが設立したユニオン製材所は後に簿記係のH・J・チェイムが買収し、現在でもチェイム家が所有している。 2010年、メアリーズビル市政委員会は税収を上げるための一環として、ショッピングセンターの開発のためにワシントン広場公園の一部を売却するという異論の多い決断を下した。これは市が緑地を開発することに反対する市民集団である「メアリーズビルの公園を守る市民団」によって持ち込まれた法廷闘争に、市が金を掛けながら勝利した後のことだった〔Whitmore, Dale."Tree nets spoiling Marysville ," ''The Appeal-Democrat,'' April 16, 2009〕。その後、市が緑地を失うことを埋め合わせる緩和手段が出たが、事実上市域内にあるとしても堤防の輪の外側にある市の資産を使うことに対して批判されている〔Marysville's plan for ex-Hollywood Trailer Park land draws fire 〕。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「メアリーズビル (カリフォルニア州)」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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